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2012年2月12日日曜日

バングラデシュ撮影アルバム_2011年12月_facebook掲載



2011年12月、バングラデシュ訪問のときの写真をfacebookで公開しています。
以下のリンクから、facebook登録がない方でも閲覧できます。このブログでも文章と一緒に上げていくつもりですがなにしろ一週間の旅行が終わるまでに何年かかるかわからないもので、こちらを先に、もう。

※補足:これらアルバムの写真は、私が撮影したものと、バングラデシュ人の友人である"Masud Orno"、"Fahim Hossain"のふたりが撮影したものが一緒になっています。いまとなってはどれが誰のものかわかりませんが、だいたい写真に偉そうに写りこんでいる輩はこの三名の誰かです。




●アルバム01
※2011年12月05-06日・バングラデシュの首都ダッカにて
・バングラデシュ最大の市場「カウランバザール」
・大きなバススタンドなど賑わう「モハカリ」地区の生鮮市場等

●アルバム02
※2011年12月07日・首都ダッカ~タンガイル県
・ダッカ市郊外、レンガ工場が立ち並ぶ「アシュリア」地区
・この季節には「からし菜」が咲き乱れるお茶の名産地「ミッジャプール」地区
・タンガイル県カリハティ郡の「イッチャプール村」

●アルバム03
※2011年12月08日・タンガイル県
・「イッチャプール村」
・少数民族のガロ族が住む「モドゥプール」地区


●アルバム04
※2011年12月09日・タンガイル県
・村の市場、サリー工場、結婚式など


●アルバム05
※2011年12月10日・タンガイル県~首都ダッカ
・村の市場
・都市部の村落部の境目に位置する「カリアコイル」地区のレンガ工場&からし菜畑

●アルバム06
※2011年12月11日・首都ダッカ
・ダッカ市交通の要所、船着場ショドルガット
・オールドダッカ市街




※補足の補足:つまり上のアルバムの写真は僕ら素人に毛も生えていないような三人がツルツルとワイワイと撮った写真なのですが、今回のバングラデシュ訪問はプロ・セミプロの写真家の方々と同行でした。先日四つ切に大きく引き伸ばしたそれらプロ作品を見せていただく機会がありました。
「えっ」「こんな綺麗なところだったっけ」「こんな、胸が高鳴るような場所に、いたんだっけ」
プロフェッショナルの眼で、一瞬をバチンと切り取られた、「アジア最貧国」バングラデシュの写真は、目が覚めるほどに色鮮やかで、こちらの表情さえ変えるほどの笑顔が溢れ、「輝き」以上の力を持った眼力、人々のひっきりない動きと驚くほどの働きぶり、その背後の人生と長い物語、それら印象がすべて記憶に張り付いてくる、「鮮烈」そういうものでした。

2012年1月20日金曜日

バングラデシュ珍夜鈍行.第2珍:五感で気付く、こんにちはを言う前に、唐突でもない愛の話




『荒野のロマネスク』を書かれた文化人類学者の今福龍太さんという人がですね、沢木耕太郎さんという『深夜特急』の人とですね、対談をしてそのなかで、今福センセーがこう言うんです、


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世界には二種類の場所があるんだろうと思います。


放っておいても「何か」が起こる場所(サムシング・ハプンズ)と、

自分からアクションを仕掛けないと「何か」が起こらない場所(メイク・サムシング・ハプン)。


日本やらアメリカは後者、日常生活の形というものがもう決まっていて、抵抗なく決まりきったルーティーンをこなすことが可能な社会。

いっぽう前者、東南アジアや西アジア、中南米といった地域は、こちらがアクションを起こす前にすでに周りで無数の出来事が起こっている。

この二つは場所の属性としてはっきりあるんじゃないかと思います。

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と、今福センセー。例えばロサンゼルスやロンドンなんかに日本から遊びに行くとして、それは同じ(メイク・サムシング・ハプンの)世界であるから、旅するという感覚は希薄になってしまう。しかしアジア諸国など、日本とは違う属性の(サムシング・ハプン)世界に入っていくとき、「境界」を越えて別の世界に自分で踏み込んでいく、そこに「旅」を感じるんだ、という。
 

バングラデシュっていう国はそのサムシング・ハプン中のサムシング・ハプンな国だろうと思いますよ、どのくらいハプンなのかというと、ハップンし過ぎて発奮、着いて八分で脱糞ぐらいしてしまいそうな、ま、驚きの連続といいますか、つまりですな、バングラデシュにおけるその「境界」ってのはどんな形で感じることができるのか、それを今回のバングラデシュ行きで確かめてみたいというのがあったのですよ。


2011.12.05 日本出国~香港トランジット~バングラデシュ到着


出発の前夜、福岡中洲でのメイク・サムシング・ハプンを泣く泣くあきらめ「さよなら今夜のロマネスク」などとつぶやきながら福岡空港から出国、キャセイパシフィック航空は台北を経由して香港へ。
香港の空港で乗り換えを少し待ち、いざバングラデシュへ、となるのだが、



唐突に“愛”の話をする。



いや唐突でもない、なぜなら空港なんて場所にいると、どいつもこいつも恋愛映画の主人公になったつもりになりやがるからだ。




こんな感じだろう?


ほいで僕のような常識人からするとね、トランジットの空港のなかってのは落ち着かないよ、精神的にも、肉体的にも、座るところあんまり無いし。買い物をしようとしても高いものばかりで、お釣りで帰ってくる香港ドル硬貨はでっかいし。


誰もを自分てオンリーワン、て気分にさせちゃうトランジットの時間と空間てのは罪なもんだよ。さらには、その尊い主人公である自分以外は、すべてエキストラだと思っちゃってるもんね。きっと↑の動画みたいなBGMが聞こえてるはずだよ、ゲートがならぶ長い通路の向こうから、ほら愛しい人が駆け寄ってくるよ……。そして全力で抱きしめたあとに、そっとつぶやく「love actually is all around」



と、両腕をめいっぱい広げていても誰も飛び込んで来ないようなので、自分がどうやらエキストラらしい場所には用なんてないよ、さっさとバングラデシュへ。




現地時間の夜8時ごろ、バングラデシュの首都ダッカ到着。




バングラデシュ到着、は何度目か、けれど夜は、真っ黒な空を突き抜けて、心細いダッカの灯りのなかに降りるのは、初めての経験なのだ。



冒頭の話、バングラデシュというサムシング・ハプンズの世界への境界とはなんだったのか、それは、数回程度の入国経験からのちっぽけな予想をかるく吹き飛ばす、五感のすべてで受け止めなければならないものだった。
それは着陸直後、乗客たちがいっせいに電源を入れる携帯電話の着信音からはじまり、我さきに飛行機を飛び出ようとするそのエネルギッシュな行儀の悪さ、機外に出た瞬間からだをつつむ、むん、とした生ぬるい空気、そしてホコリと汗の混じった、熱いにおい。入国審査の列では理不尽に二時間ほど待たされて足が棒になり、車まで荷物を運んでチップをもらおうとする誰だかわからない奴らとひと悶着あり、暗闇のなかでその充血した白目だけが浮き出ている、空港の鉄条網に張り付く、何も持たない彼らからの視線、好奇心。


旅をしている、どころではない、「バングラデシュへと来た」と、全身の毛穴が開いて、からだ全部でこの国を感じているのだ。入国後一発目、気合の入った放屁も、心なしかサムシング・ハッぷぅンとうれしそうな。


いたるところで無数の何かが起こっている気配を五感で感じながら、夜のエアポート・ロードをグルシャン地区へと走る。あ、写真撮ってないので↓は誰かの動画。






同行者たちはグルシャン1のホテルにチェックイン。毛穴の広がった僕は、知り合いの家で下品な飲み会、寝ずの二日目へと突入することになる。

2012年1月8日日曜日

バングラデシュ珍夜鈍行.第1珍:まだ日本、いろいろふくらむ出発するべき場所までへの道中



2011年の12月、再々のバングラデシュ行きの機会に恵まれる。

これまでの2回、計3年弱にわたるバングラデシュ訪問・滞在のときにはなにしろ、私をその国に行かせてくれたかのやんごとなき御団体が、なにからなにまで手配をしてくれたもので、非常にお恥ずかしい話、自分でイチからビザとって航空券予約して両替したりとか、こういうのオシャレかしらなんつって、下着……、靴下必要だったっけ、とか、スーツケースちょうどいいのがないよう、など、なるほど人が動くっていうのはこんなに大変なことなのだ! 今更の旅行ド素人ぶりを露呈する。

道中の、けっこうな量の珍写真・美写真があるのでここに掲載していきたいと思う、旅程の順番に沿って礼儀正しくきちんと書いていくのだが、いくら最初とはいっても日本の空港まで移動するところから始める必要があるのか、それとも格好良く飛行機を降りバングラ土を踏みしめた瞬間からなのか、あの乾いた誇り臭い空気を嗅いだその瞬間から始めるべきなのか、せっかく買った新しい下着(ボクサーパンツのヒートテックもどき)を持参するのを忘れて絶望した最初の夜のことからが良いのか、これを悩んでいたら旅行から帰国してもう一ヶ月も経ってしまったのだ。

でもまあ、かの沢木耕太郎センセーもユーラシアバス横断の旅から帰ってきて、『深夜特急』を書き終わるまでに15年以上かかっているというし、なんなら僕もこの今回の1週間程度のバングラデシュ旅行記を70年ぐらいかけてもいいのかななどと思うけれども、そのころにGoogle様が凋落してらっしゃる場合にこのブログサービスはなくなっているかもしれないし、もう少しはやく書きたいなとも思う。

旅行がどうだったこうだった、語り始めるときに、まず始めに用意すべきはBGMだ。


↑BGMは1分ぐらいから流れ始める。からだひとつで旅してる、という感じでいいんです。現地の生活の匂いまで伝わってくるようで。ただ申し訳ないのだけれども、今回の記事は日本出発はおろか福岡空港までもたどり着かないのだ。

もうひとつ断っておきますが、上の動画に映る主演の大沢たかお氏と、わたくし藤井を重ね合わせていただいてもまったく差し支えございません。そのほうがむしろわかりやすんではないかと思っておりますが。いかがでしょう。



2011.12.4 家から出発、新幹線で博多まで移動・福岡空港近くで前泊する



「旅」という気分になれば、いつもの光景もまた違って見える。だから旅行記は、その「旅」をすると、決めたその瞬間からのことを書くことができる。旅をしようと決めたそのときから旅行ははじまっている。




山口県周南市、徳山駅を新幹線で通過する際に見える瀬戸内の工場群。

ランダムな形の雲が、気まぐれな風にたなびく、その地域の「生活」が形をかえてあらわれた工場の煙、をとらえて、かたむき始めた太陽の光と混じる、旅に出る僕のすがたは確かにそこに小さく、シルエットとして存在しているのだ、などとはまったく思わず、景色そっちのけで今回の旅でいくら小遣いが使えるのか、果たして出発までに博多で中洲へ繰り出せるのか、というこれもまたひとつのリアルな旅情を、感じていたのでありました。

だからこの日写真は2回パシャ、としただけ、ふふっ。

2010年5月12日水曜日

鼻水と稲光と火傷の日

雨も降らず蒸し暑い日で、稲光ばかりで、煙草と間違えて火のついたマッチをくわえて唇火傷するわ、永遠とはここにあったかというぐらいに鼻水が止まらない日でした。

2010年4月14日水曜日

大晦日にダッカバブルの中心で、他人の叫びに耳をすます

日本にもあるらしいハンバーガーチェーン「A&W」が、このダッカにもある。

JICAバングラデシュオフィスの入っているビルの道を挟んだ向かい側、ワシントンホテルのとなりの建物の二階である。そこはグルシャンの1番通りという界隈で、一日のうち25時間は混んでいる交差点を中心として、今も建設が続くオフィスビル郡、昔からの路上茶店、国際色豊かなインチキレストラン、もちろん「普通の」食堂、コピーDVDから写真屋から便所のタイル、高級靴からメガネ屋、支援物資が流れてくるドロボー・マーケットなどなど、とにかくむせかえるような熱気なんかで構成された地域で、そこを行き交う人々も、バングラデシュの先端を行くオフィスワーカーから、路上の物売り、我々外人、偉そうな物乞いたちなど、これまた千差万別の「生きる」というねっとりとした思いが混ざり合っている場所で、

そこにあるハンバーガーチェーン「A&W」。ここは公衆無線のインターネットが利用できる。その速度がちょっぴり速いのでよくエロサイトなどこっそり見ながら居座っている。外人の利用も多いが、客の大半はいわゆる「金持ちベンガル人」である。正確に言えば「金持ちベンガル人の家の息子娘たち」だろう。

なんだろう。ここのルートビアーというスースーするやつにアイスクリーム入れたやつが、おいしいのです。

2010年3月15日月曜日

寝起き突然のなつかしい、音と光とにおい

帰ってきてから、よく寝ていた。夕方から。

夜になっていた。七時の半ころムックリ起きると、カーテン越しの窓の向こう、びかびかびかと光る様子。寝起きの稲光だなあ、うるさい天井のファンを止めると、ばらばらばら、という音。少し慌ててカーテンを開ける、雨が降っている。

居候先のお手伝いさん、丸顔のミントゥさんに、冷静を装って「雨だね」と言う。丸顔のミントゥさんは本当に冷静に「雨の季節が、やってきます」と。

雨の季節はまだ先ではないだろうか、三月いっぱいぐらいはまだ降らなかったはず、まあなんでもアリか、などと思いながら丸顔ミントゥさんが用意してくれた料理を食べる。網戸にしていた窓を閉める。強さを増したきた雨が窓に打ち付けられる。ばらばらばら、ばら。

雨季一番、となるだろうかこの最初の雨は、この国にとってわくわくとするものなのだろうか、ここに約三年いても私はやはり「近頃の日本人」で、腹が満たされるにつれて、隠していた少しの興奮は消えて、「明日も降れば、移動が面倒くさいなあ」となった。

と、食事後ここまでの文章を書くあいだに雨はほとんど止みそうに。風が強い、家のそばにある椰子の木がざわざわと揺れている。窓をあけると流れ込んでくる、湿り気まじりの懐かしいにおいは、世界で一緒だなあ、と思うと、また眠くなってきた。

2010年1月11日月曜日

職場が燃えた・その後

火事その後。

やはりニュースになっている。国の省庁のひとつであるBRDBが燃えたということ、また恥ずかしい話、倉庫の使用方法や電気の取りかたなど、結構な部分がイリーガルだったという。昨晩からテレビでも、今朝の新聞でも大きく取り上げられていた。

英語版デイリー・スター紙の記事

これは燃える前の姿。といっても外見は別に火事後も変わってない。
奥の肌色のが私の配属先であるBRDB。手前のやたらでっかいのは家族計画局。ダッカのカウランバザールというところにあります。

なぜ職場が燃えたか、の詳細。

ただコレはスタッフによって諸説あり、まだはっきりしない。「らしい」話。

午後二時ごろ、地下の駐車場に置いてあった配電設備がショートして発火。乾季ということもあり、近くにあった器材やタイヤなどが一気に炎上して黒煙が建物内にまわる。職員はほぼ全員がこの時点で外に退避。取り残された三人の職員も屋上からはしご車で救助される。消防車7台で消化にあたり、夕方四時半ごろには鎮火。

今日建物内をまわってみたが、三階から上は実質的な被害は無いよう。地下~二階までは煤だらけ。電気、水の回復は来週になるようだ。下のほうは書類もダメになったようだし、電気が来てみないとわからないがコンピュータも厳しいかもしれない。

発電機でわずかに階段を照らす。
真昼間である。

発火した地下駐車場。白黒写真のようになった。
煤で蜘蛛の巣が真っ黒に。

BRDB本部レセプション。職員たちは今日も弁当持参で出勤している。

屋上への扉。いつもは開いているが、今日は施錠され屋上に出ることができない。昨日逃げ遅れた三人は、ここから出て、はしご車を待った。

今日も来ていたファイヤーサービス。

けが人は、出ませんでした。

2010年1月1日金曜日

ニューマーケットのいつもの新年・新年のいつものショドルガット

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

きっと更新日付は2010.01.01になっているはずです。おめでとうございます。けれど実際に書いているのは2月の2日であります。実におめでとうございます。

さて今年で三度目のバングラデシュでのお正月、もちろん西暦でのお正月ですが、


お正月。ニューマーケットの賑わい。といってしまえば大変おめでたく存じますが、写真はまちがいなく1月1日のもんですが、まーこれ、バングラデシュでは西暦のお正月を祝う風習はあんまりないので、(最近はなんとなく祝っていたりもします。ハッピーニューイヤーイベントなんかも)いつもどおりの賑わいです。いやむしろちょっと少ないか。

ニューマーケットはいつもがお正月の賑わいで、実際にお正月だったこの日も、やっぱりお正月のような混雑振りでした。「おめでとうございます」肉屋のおじさんにベンガル語でそう言ってみても、うんうん、と嬉しそうな、自分にとってはすべての時間がおめでたいといったような笑顔で、写真用の仕事をしてくれました。




ショドルガット。おめでとうございます。お正月ならショドルガット。ダッカの南のほうにある船着場です。

バングラデシュの映画、特に人間ドラマの分野には、多く使われている場所。南のいなかから、ダッカに何かを求めて、あるいは何かから逃げるように、混雑した船にのって、そして最後にここに行き着く。出会いと別れが繰り返される、バングラデシュの上野駅。それがここショドルガットです。

そのへんにいるボートのおいちゃんに100タカもあげれば、1時間ぐらいはその辺をギイギイとゆっくりまわってくれます。

 

静かな川の水面をドンブラドンブラとゆっくり進みながら、ときおりすれ違う、客をいっぱい乗せた大小の船。新しい生活を始めようとする人たちの緊張した、あるいは、とろんとした表情の向こうに人生が見えます。


どうも日常に名前をつけて特別な時間というか、これからのやる気、を出したい、このどんくさい日本人はつぶやきました。「ああ、今日は正月だ。ハッピニューイヤー」
昔も今もこれからも、変わらず、多くの人を運んできては、多くの人を送り出してきたショドルガットの風景に、新年のあいさつはむなしく消えていきました。

2009年12月22日火曜日

夕方その1その2・アリフの夕食と交通カイゼンなるか

夕方(ここ一週間は昼間は上着がいらない、あたたかい)その1。

テレビのリモコンを探してグルシャン2をふらついていると、パンジャビ坊主頭姿のイケメンに声をかけられる。誰やねんと身を固くしていたのだがよく見ると、よく世話になっている印刷屋の兄ちゃん、アリフ(29歳・新婚)である。

こりゃ幸い、ということで買い物に付き合ってもらい(ベンガル人がいっしょだと値段交渉やってくれるから……)、その後どさくさにまぎれてメシもご馳走になる。

「あんたんとこの子供はいつできるのよ」と聞く。
「子供……、2、3年あとの話だよ」
「なんでそんなにあとやねん」
「まあ……、へへへ」

口のまわりをチキングリルの油でテカテカにしながらアリフ29歳新婚は笑う。幸せなのだろう。



夕方その2。

ニュースを見ていると、交通。




世界で最も劣悪な道路状態、といわれるバングラデシュ。残念なことに本当らしい。バングラデシュの道路といえば、ここ数年で一気に増加したマイカーはもとより、バス、トラック、バイク、CNG、リキシャ、バン(荷車)、なんていっていいのかわかんない車、ヤギ、牛、物乞いの方、などなどがまったくそれぞれのルールで移動し、もちろん全員が自分優先というこれ以上ないエネルギーのたまり場、昼間であればこれに熱気とリキシャワラなど労働者の体臭なども相まって、「なんというか人類本来の祭りが行われているのだなあ」と、ブッ飛ばしてくるクソったれバスを避けながら思うのだが、

最近、

この交通状況の改善をしようとしている! 良いことだ……。


金髪ねーちゃんもリキシャで。


ダッカの近頃では、女性ドライバーもちらほら見られる。
だからといって交通マナーが良いということは無いようです。

今日のニュース番組によれば、首都の混雑する道路に「こっちはバス専用、あっちがわはリキシャだけ、こっちはなんでも」のような「表示」を路面に直接書いて、まーそんなんあっても誰も守らないから、さらにポリスが立って、誰が違反してるかビデオ撮影していて、撮影してるから交通整理できてなくて、結局いつも以上に混雑している状況が無残にも映し出されていたのだ。

少しずつ変わっていく意識もあるのだろう。二年前までは「度胸」と「勇気」でしかわたることのできなかった交差点、まず自動車用信号が付き、最近(いつのまにか)、歩行者用信号までが設置されていた。この信号に無条件に従うとまずハネられる、という今のところの状況だが、変わっていくのだろう。








街はクリスマス一色、ということはもちろん無い。
 場所によってはひっそりとクリスマス・ツリーの準備。
 

2009年12月15日火曜日

バングラデシュで最もかっこいい、物売り

明日はビジョイ・ディボーシュ(戦勝記念日)だ! ということでいまはバングラデシュ中が盛り上がってる最中であります。



この国の誰もが愛する、緑地に赤、バングラデシュの国旗を誇らしげに売り歩く。この時期にあらわれる「国旗売り」は、やっぱりバングラデシュでいちばんかっこいい物売りだと思うのです。



明日の戦勝記念日を祝って、なのかなんなのか、アワミリーグ(現在の与党)の青年部がワッショイワッショイ、ラリーを行っています。


演奏つき。


日バ有効旗?


カラスたちはそしらぬ顔で。

2009年12月14日月曜日

国旗売り・ふたつつながってCNG


12月16日、ビジョイ・ディボーシュ(戦勝記念日)用の国旗売り。イカシテるのです。グルシャン2近くの交差点。



CNGに乗って移動していると、故障して止まっている別のCNGのわきに止まりまして、「どうした?」「いや故障しちゃってんのよ」「あ、そう」「引っ張って?」「あ、いいよ」ということで修理屋まで連結、引っ張っていったのです。前のやつに私が乗っています。うしろにも客が乗っています。

いつもよりもゆっくりと走る2台つながったCNGは、なんだかトコトコトレインのようで、なんだかのんびりとした気分、になるわけもなく、阿呆のように飛ばすほかのバスやらトラックやらにあおられながら、トコトコと走っていったのです。

2009年12月13日日曜日

おとなりさんは家族計画


今朝の霧


最近、ひょん、といいますか、ああトップダウン、ま命令、という感じで職場が増えている。普段の配属先であるBRDB(バングラデシュ農村開発局)のとなりにDGFP(家族計画局)がある。ここのコンピュータ関係の指導をしている。

いま進んでいるのは、ここの図書館にある本の検索システムをつくることで、彼らといっしょにやる。


いちいち格好つけんでいいのです。普通にしてくだされば。


綺麗に見えるかもしれませんが。よおく見るとそれほどでもないのです。




夜、ひさしぶりにダンモンディに。この辺は最近新しい店やらビルやらがボッコボコである。ダッカ内でもかなり、都会的な、いうたら洗練された、まゴミゴミはしてる、でも結構素敵よ、な活気にあふれて。

2009年12月12日土曜日

後悔の湯船は五日前・冬

あー風邪! と叫んでもしょうがない。くさい息がマスクに跳ね返ってひとりヤラレルだけなのである。相変わらず調子は悪い。明日、土曜日いちにち休めば大丈夫でしょう……、と思わねば気がめいるのでそう思って、もう書いちゃう。

原因はなんだろう。乾季で霜季で冬、つまりバングラデシュの季節というなんだか姿の見えない大きなもののせいにするのは簡単だが、それだとあまりに救われないというか、そこから逆算しての解決方法というか、今後に向けての対策なんてものが見えてこない、じゃーこれからの健康生活に向けていっちょPDMでもつくってみましょうか! という雰囲気にはならないので、ちょっと具体的に考えてみると、

まー考えるまでもなかった。湯船に入ったから。

5日前ぐらい、「肝心」の風邪のひきはじめの時代であった。隊員ドミトリーに人が少なかったのをいいことに、私は男性居室の風呂場の湯船にお湯を張って、実に四ヶ月ぶりの「お風呂」に入ったのである。いや普段シャワーみたいなんは浴びていますよ。

思えばそこが転換期であり、「あーやっぱりな」という安心感さえ漂う後悔とともに、ゆるやかに私は風邪をこじらせていったのでありました……。

ドミトリーも週末、人が多くなってきたので居候先に戻る。夜。肌寒い。



12月、だがもちろんクリスマス・イルミネーションは無い。昼間は緑色をしている池の向こうに見えるのは、金持ち専用病院(右のキンキラキン)と、結婚式の会場(左の白いやつ)である。
寒い。

2009年12月9日水曜日

熱冷ましの二日目と Union Website

PRDPクォータリー・ミーティング二日目、だが行けず。風邪をこじらせたまま。ドミトリーで寝込む。
やっぱりアレですね。無理に湯船もないもんだ、ということで他の隊員が恵んでくれたドーナツ(おいしい)をかじりながら、また寝る。

今日のミーティング二日目でしゃべる予定だった「Union Website」。結局、資料ごと他の隊員に任す。おねがいしまーす。

概要は以下のようなもの

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現在、PRDP-2 の15 union、プラス、タンガイルショドール郡の5 union、計20 union の「ユニオンレベル」のWebSite(ホームページ)を作成する予定がある(もちろんプロジェクト提案)。

1. What is Union WebSite?
2. Why Union WebSite is needed?
3. How to manage Union WebSite?


1. What is Union WebSite?

ひとつ例をあげる。






これはシラズゴンジ県、マダイノゴールユニオンのwebsite。グラミンコミュニケーションズのプロジェクト、「One Village One Portal」を通して開設されたもの。
マダイノゴールでは、UPからの最新のユニオンの情報が、「UIC(Union Information Centre)」のオペレーターによっていつもエディットされている。

2. Why Union WebSite is needed?

ユニオンに住んでいる人はもちろん、ユニオンの外、郡の外、県の外、もちろんバングラデシュの外からも、このマダイノゴールユニオンの情報を見ることができる。
右側にはユニオンの人口や面積などの基礎情報が表示され、左側のメニューからは、学校や病院の位置、SAAOやシャストなどのNBDsとどのようにすればコンタクトができるか、などを見ることができる。「村人のWishList」というものもあり、これはユニオン内での村人の要望がプライオリティの高い順に表示されている。

このように、ユニオンの外に向けて、ユニオンの状況を知らせるため、また、ユニオンの中で、ユニオン住民が、自分たちのユニオンの情報を知り、自分たちで情報を発信することで、発展へのサポートとなりえるもの。これがUnion WebSiteである。

PRDPが展開されている地域で、Unionレベルのwebsiteを運用することは、Link Modelを広めていくうえで非常に強力で有効なツールとなる。PRDPが入ってるユニオンでは、ユニオンの基礎情報はもちろん、GCを組織する段階で各グラム単位での詳細なデータは集まっている。スキームやトレーニングなどのプロジェクトの活動に関してのデータや写真も多くあり、すぐにwebsiteをオープンすることができる。もちろん、UCCMの内容などをアップロードし、「Digital・ノーティスボード」として使用することも可能である。
UCCメンバーであるNGOやNBDsなどとも連携し、各組織の情報をwebsiteを通じてまとめ、住民に知らせることができるのも強みとなる。
もちろんこれらのことはリアルタイムで外部に向けて発信されることになる。内部の機能の強化、そして外部への情報提供、これを同時に行うことができるのがunion websiteである。

3. How to manage Union WebSite?

どのように運営するのか。
いろいろなパターンが考えられる。PRDP、BRDBが主導で行うこともできるが、ドメインやサーバ等を準備するためには予算も必要である。その手続きや、プロジェクトの場合であれば、それが終了したその後どうするか、などを考えると、やはりユニオン単位として、つまりUICやユニオン内にあるテレセンターを本拠地として行うのが、持続性を期待するには最も現実的である。
ユニオンのオフィシャルな情報を載せるものであるから、UPのなかに設置されているテレセンターで行うのがもっとも良いだろう。幸いなことに、PRDP実施ユニオンでは、ほとんどのユニオンポリショットに、インターネットができる環境が整っている。

UICなど、オペレータが常駐しているテレセンターはよいが、実際にwebsiteを更新するのは誰か? という問題がある。
このunion websiteは、もちろんプロジェクトにもメリットのあるものだが、基本的にはユニオンのものであり、今後継続するためにも、ユニオン単位で完結して運営していく必要がある。

いま現在、ひとつアイデアがある。グラミングループのプロジェクトとして行われている、「one village one portal」というものがある。これはひとつのユニオンにひとつのwebsiteを開設し、最終的には、村人が情報を発信することでユニオンとしての収入を確保していこうとする試みである。最初にお見せしたマダイノゴールユニオンは、第一バッチとしてこのプロジェクトに参加し、UPにあるUICでunion websiteを運営している。
このプロジェクトに参加するメリットは、まず、グラミンがテンプレートを用意し、ユニオンのオペレータは、自分たちのデータを入力するだけで開始できる環境が整っているということ。このwebsiteの不具合は、もちろんグラミンがすべてのサポートを行ってくれる。また、とりあえず現在は、このwebsiteを開始するにあたり予算が必要ないこと、また、グラミンとしてはこのプロジェクトは永久的に続けるものであるため、PRDPの終了後も、websiteは残るということ。そして、ユニオンのオペレータに対し、websiteのeditに関する研修が行われている、ということなどである。

いろいろややこしいことを言いましたが、union レベルでのwebsiteの運営は、PRDPにとっても、もちろんユニオンにとっても、非常に有益なものであると思う。

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というようなことを、まずプロジェクトスタッフに説明。今回のミーティングはプロジェクトの関係者だけのものなので、プロジェクトにとってどのようなメリットがあるのかを入れているのだが、実質的にはもちろんこれはユニオンのものであり、村人のものだ。

上記に書いたことは、グラミンの「OVOP(One Village One Portal)」についての説明にかなり影響を受けたものだ。
ホームページよりも先に必要なものが云々、という議論はもちろんある(電気も無い場所もあるし)(でもまあそんなこと言ってたら何にも進まない)、グラミングループの「村人が情報の送り手となり、そこから収入を得る」というモデルは、私は面白いと思う。時間がかかるかもしれないが、援助によって「いびつな発展」を半ば遂げてしまったバングラデシュのような場所では、日本の常識的発展段階(んなものがあれば)というものは意味を為さないのかねぇ、とも最近思う。

2009年12月5日土曜日

コミラ県UCCMセミナー前夜・午前0時のDCオフィス

明日、

は土曜日で休みだというのに、じゃない今日は金曜で真剣な休みだというのに、などと文句は言いません。書くだけです。うそうそ。
明日コミラ県で大々的に開催される、県下にPRDP-2のUCCMを周知しよう、というセミナーの手伝いのために拉致される、もとい着いて行く。まー首都から近いとはいえ村なので、ダッカですさんだこの心、なぐさめるにはちょうどええ……行きます。



これが会場。コミラ県のDCオフィス会議場である。私自身の仕事は機材の手配とか配線とか、つないでみたり、トイレの位置を確認したり、わーうつったよ、とか喜んでいたり、していたりするとあっという間に終わったのだが、他の箇所の準備は深夜0時をまわっても終わる気配がない。驚きませんけども。



飽きたので、じゃなかった気分転換に外へ、他のひとたちの話し合いは別の建物でやっているので、誰もいない。12月、バングラの冬、けして強くはない風が、冷たい。日本はクリスマス気分で盛り上がっとるんやろか、といっても自分、昔から縁なかったものなあ、嘉村磯多的気分になる。タバコすって、うんちして……、




ここにチラッとうつってるのが、このコミラ県が任地のスケベ野郎、じゃなかったエリート隊員のI氏である。彼とコミラ県ティタシュ郡のウポジェラチェアマンの協力によって、今回のセミナーの実現がなされ、UCCMの普及についても一気に加速した。あっぱれな男である。

明日はこのオフィスが、コミラ県のお偉いさんで、いっぱいとなる。

2009年12月3日木曜日

素敵なカウラン・夜のバザール

暗くなったら寒いのです。もうこの季節。霧も立ち込める季節になりました。田舎はもうすぐ、ショリッシャ(からし菜)を植えて、見渡す限りの黄色が、見るものを幼き頃のハウス劇場の世界へ……、

だがここはダッカ。自然の美しさはほとんど無いけれど、生きる人がつくりだす熱い美しさがあるのです。



バングラデシュ最大のバザールといわれている、カウランバザールの夜。私の配属されているオフィス、BRDB(バングラデシュ農村開発公社)がここにあるのです。

2009年11月30日月曜日

夕焼け・11月のおわり編




夕焼けばかり。手前は緑。こうして見ると首都ダッカも木が多い。歩いてみるとそうでもない。

2009年11月29日日曜日

アスファルトに消えない血・コルバニイード

今日の写真はわりかしショッキングかもしれません、といっても牛を解体しているところです。犠牲祭の模様の写真です。苦手なかたは半目にしながら読んでいただくか……、得意なかたは……

 

今年のコルバニ・イードは首都で。前回二年間、二度のコルバニは村にいたので、村のなかのおおきな広場みたいなとこで、みんなが共同で買った牛がわんさか集まって、土の上で30頭ぐらいの牛が一度に解体されてたりなんかして、それはそれで壮観ではあったのだが、

ダッカの、都会の、今回写真をとったバリダラ(高級住宅街)の、犠牲祭もまた、これまた、衝撃というか、なんというか、住宅街なので、それぞれが家の前で、やたらにでっかい(金持ちだから)牛をバラしている。アスファルトだから、血がしみこまず延々と流れていく。いたるところで作業しているもんだから本当に血なまぐさい。遠巻きに解体を見る金持ち一家と、作業を行う雇われ青年と、肉をめぐんでもらうのを袋片手にソワソワ待っている物乞いの方々と、カメラ片手の外国人。












あとで流すのだが……



昨日の記事に載せたでっかい二頭です。





 牛ではなくヤギのところも


解体された牛は、骨も内臓もまったく捨てるところがない
この日残るのは皮だけ。それも売られていく。




アスファルトのうえの血は、息を呑むほど鮮やかだ。



犠牲祭、どれだけの貧しい人間に肉を分け与えたか、それはアッラーに対する信仰のあらわれである。この日、高級住宅街バリダラ地区には、一年でもっとも(自称)貧しい人間が集まる。配布をはじめる家をさがし、肉をもらう順番を待つ。


夜になっても